等しい円において等しい弧には等しい弦が対する。
前回宣言した通り、今回は前回の逆である。
前回は弦が等しければ弧も等しいことを示したが、今回は弧が等しければ弦も等しいことを示す。
早速証明していこう。
ΑΒΓ、ΔΕΖを等しい円とし、それらにおいて等しい弧ΒΗΓ、ΕΘΖが切り取られたとする。
このとき、弦ΒΓは弦ΕΖに等しいことを示そう。
円の中心を取り*1、それらをΚ、Λとする。そして、ΒΚ、ΚΓ、ΕΛ、ΛΖを結ぼう*2。
ここで、二つの三角形ΚΒΓ、ΛΕΖに注目しよう。
弧ΒΗΓは弧ΕΘΖに等しいから、角ΒΚΓも角ΕΛΖに等しい*3。そして二円ΑΒΓ、ΔΕΖは等しいからその半径は等しい*4、すなわち二辺ΚΒ、ΚΓは、二辺ΛΕ、ΛΖに等しい。よって、二辺とその間の角が等しいので、底辺ΒΓは底辺ΕΖに等しい*5。
よって、等しい円において等しい弧には等しい弦が対する。これが証明すべきことであった。
非常に短い証明である。弦の両端と円の中心を結ぶと、合同な三角形ができるため、弦が等しいことがわかる。
前回の証明でも全く同じ図を描いた。そして、前回は三辺が等しいことから合同だと述べたのだった。細部は違うが、非常によく似た証明だ。
また、今回の証明では、命題III.27を用いた。一方、前回の証明では命題III.26を用いている。今回と前回は逆の関係だが、命題III.27とIII.26もまた逆の関係の命題である。なんだか綺麗な対応関係だ。
ここまでの四つの命題により、等しい円における角、弦、弧の関係が以下のように得られた。
等しい円において、
・等しい角は等しい弧の上に立つ
・等しい弧には等しい角が立つ
・等しい弦は等しい弧を切り取る
・等しい弧には等しい弦が対する
そしてここには述べられていないが、等しい弧を通して、等しい弦には等しい角が、等しい角には等しい弦が対応することもわかる。
今回の命題のギリシャ語原文は以下の通り。
̓Εν τοῖς ἴσοις κύκλοις τὰς ἴσας περιφερείας ἴσαι εὐθεῖαι ὑποτείνουσιν.
前回に比べると非常に短いが、後半の「大きい弧は大きい弧に〜」という注釈がなくなっているからである。
意味のまとまりごとに訳すと、以下のようになる。
前から順に読むと、おや、と思うかもしれない。日本語として意味が通じない。古典ギリシャ語は語順が比較的自由なためこうなる……という理由もあるが、他にも理由がある。
まず今回の命題は、前回の命題と違って、主語が3節目にある。ἴσαι εὐθεῖαι「等しい弦(複数)は」が主語で、2節目のτὰς ἴσας περιφερείας「等しい円弧(複数)の」が目的語である。
そして動詞は最後のὑποτείνουσινで、これはὑποτείνωの3人称/複数/現在/直説法/能動態だ。問題はこの単語の意味なのだが、この1単語で「〜の下に広がる、〜の下に横たわる」といった意味を表せるのだ。
「等しい円弧の、等しい弦は、下に展開する」という文章は日本語として不自然であり、自然な文章にするなら、「等しい円弧の下に、等しい弦は、展開する」とすべきだろう(これでもまだ不自然だが、原文の語順を守った)。
が、ὑποτείνουσινのひと単語で「〜の下に展開する」の意味になり、「の下に」を分離できないため、上の画像では日本語として不自然になっている。
この記事の冒頭では、この単語を「対する」と訳している。これは参考文献[1]の訳文をそのまま引用している。
前回と今回の命題の文章(ギリシャ語文と参考文献[1]の訳文)を並べてみよう。上が前回、下が今回である。
見比べてみると、同じ単語なのに定冠詞(αἱ, τάς)がついたりつかなかったりしている。たぶん、注目している対象が違うのだろう。
上は「等しい円における等しい弦」の性質を述べていて、下は「等しい円における等しい弧」の性質を述べているのではないだろうか。下は、主語こそ「弦」だが、主役として注目したいのは「弧」の方なのだ。今回の命題が前回の逆であることを考えると、主役を「弧」とするのが妥当であろう。